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国内新聞社を中心としたマスメディア関連のウェブサイト巡回が趣味です。業界紙的なノリでトピックスをメモしていきます。

中日・小出社長「『開かれた記者クラブ』は言葉の矛盾」

 9月26日に行われた中日新聞社小出宣昭社長の業界紙との共同会見で、業界紙・新聞之新聞が長期にわたり発言内容を詳報している。ほぼ録音した全文を起こしており、9月30日の第1回から10月19日の第6回まで6回にわたり掲載。文字数にしてざっと2万字近い分量だ。
 著名な学者の言葉や歴史上の出来事からの引用、自分が見聞きした古今東西の海外の事例などの薀蓄が溢れている内容だが、その中で記者クラブについて触れた部分が興味深かったので紹介。出典は10月17日付の新聞之新聞から。

 

 ――記者クラブ制度について批判があるが、どう考えているか?
 開かれた記者クラブというのは言葉の矛盾で、閉ざされているからクラブと言う。開かれたクラブというのはありえない。開くことがいいことだみたいに言われているが、私はボーダーレスというのは、これまた人間の本能から言って絶対にありえないと思う。私はずっと社会部で取材してきたが、地震や大災害で発見した法則は、避難所の法則と言うが、体育館に逃げてくると必ず隅から占められていき、その次が壁際、ボーダーレスの真ん中は最後まで残る。ボーダーがないと安心できないのは人間の本能だと思う。人間の集団には枠組みが絶対要る。その意味ではボーダーレスということが仮に一時的にあったとしても、長続きしないと思う(中略)。記者クラブも、開かれた記者クラブと言うのは言葉の上での話であって、実態としてはたぶん続かないだろう。

 「開かれた記者クラブは言葉の矛盾」とは刺激的な表現だが、「ボーダーがないと安心できないのは人間の本能」という部分については正直、なるほどと思ってしまった。確かに、公的な記者会見の開放を訴える「自由報道協会」にしても、「誰もが個人単位で加盟し、記者会見等に参加することを保障する」ことを設立理念に掲げているとはいえ新たに組織・枠組みを作っていることには変わりない。また、田中康夫知事の時代に脱・記者クラブ宣言を行った長野県では、会見の主催がクラブから県に変わったものの、途中から個人の参加者はほぼ1人になってしまったという事例もあり、単純に開放するだけでは長続きしないのも確かだろう。
[参考]⇒asahi.com:〈メディア激変167〉「官」の取材現場―4 「脱・記者クラブ」宣言、その後
 ただ、この後に続く発言には少し違和感を感じた。

 記者クラブには良い面と悪い面がある。これは、どんなものでもそうだ。良い面は、情報を出す側、官庁など、一応新聞協会加盟社とか信頼できる媒体に出すというメリットがある。それから、働く側には無制限の競争を制約するわけだ。解禁には何日と縛りをかけるから、クラブ制度は弱いものほど有利に作用する。人数が少ない社は、クラブの名義さえ持っていれば、一応その発表ものはカバーできる。野放しは強い方が圧倒的に有利になるわけで、強者はクラブなどないほうが勝負に勝てる。その意味では、経営的に弱い新聞社でもクラブに入っていれば、強大な新聞社にそう見劣りがしない情報提供ができるというクラブ制度は、言論の多様性を保障していることは間違いない。
 ただ、どうしてもそれが排外的になりがちになる。クラブ員以外には教えるなという副作用は間違いなくある。記者クラブに依存した取材はどうしても当局に振り回されがちになる。

 一応、記者クラブの悪い面として「排外的」「当局に振り回される」ことを挙げてはいるものの、報道を担っているのは新聞社やテレビ局などの既存マスメディアだけという視点が色濃い。氏が現場記者であったころは、新聞社とテレビ局くらいしかメディアとして情報発信ができなかったわけなのだろうだが、ネットの普及によって外国メディアやフリージャーナリスト、インターネットメディア、NPO団体といった様々なプレーヤーが情報発信の場で存在感を増している。自らを「信頼できる媒体」と位置付けてはいるが、そうは思っていない人も少なくはないだろう。
 そういった現状をあまり認識せず、「記者クラブがあることで、(既存報道機関の)言論の多様性を保障している」と断言してしまえるのは、マスメディアのトップとして「これからも言論を断固守っていく」という強固な意志を感じるものの、現状とのギャップにやや危うさも感じる。
 そういえば、一昨年の金融庁の大臣会見オープン化問題では、東京新聞中日新聞)は朝日新聞テレビ朝日と並んで大臣会見のオープン化に明確に賛成していた。上層部と現場の認識が異なるというのはどこの会社でもよくある話なのだろうが…。